森鴎外が住んだ町・・・・・・鍛冶町

1889年(明治33年)6月19日陸軍第12師団軍医部長として赴任してきた森鴎外は、1902年(明治36年)3月26日まで。この小倉に住んだ。
 鍛冶町にある森鴎外旧居は、赴任してきて間もない6月24日から、1900年12月24日まで住んだ借家である。
 当時鍛冶町は、「向かいの内の糸車は、今日もぶうんぶうんと鳴ってゐる」と、鴎外自身が小説「鶏」書いているほどの静寂な住宅地で、現在の鍛冶町の様相からは想像できない、まったく趣の異なった場所であった。
森鴎外は、明治という時代において、典型的なエリート官僚だった。上昇志向が強く、高級官僚として明治国家を支えている事に自負と誇りがあった。その鴎外にとって、小倉赴任は中央から遠ざけられたという意味で左遷以外何者でもなかった。
赴任した頃は、忸怩たる思いに捕われ不平を漏らしていた鴎外だったが、次第に東京ほど多忙でない、静かな町である小倉に馴染み、気持ちも和んでいった。
 「小倉日記」は森鴎外の文学者として、軍医としての人間像が日常生活の感覚で書き記されたものであるが、そういう感性を覚醒させたのが鍛冶町での借家住まいの生活だった。
 鍛冶町の借家を起点に、鴎外は小倉の町を歩きまわっている。
 鍛冶町から小倉城内の第12師団司令部には、馬に乗って登庁していたが、休暇の時は鍛冶町から馬借、北方まで足をのばし、さらには長浜の漁村、紫川の河口で夕涼みしたりした。あるいは、足立山の麓を散策したり、広寿山福聚寺を訪ねたりした。
 また、鴎外は軍医としての任務の傍から、小倉の市民との交流を活発に行った。東禅寺で心理学研究会の講座を持ったり、香春口のカトリック教会のフランス人神父にフランス語を習いに行ったりした。
 ひとが退屈して入いる何もない町であった小倉の町を鴎外はひとり黙々と歩きまわり、和やかに市民と交わった。そこには、エリート官僚として鼻持ちならない存在だったかつての鴎外の姿はなかった。これが短い任期にもかかわらず、鴎外という存在が小倉の地で語り継がれる所以ではないだろうか。
 小倉に赴任していた2年10ヶ月という期間は、鴎外にとって左遷であったかもしれない。しかし、この報われない時期を、すばらしい発想の転換で自分にとって大切な時期として捉え、見事な過ごし方を見せてくれたのである。
 後になって、鴎外が自分の人生を振り返った時、借家住まいをした鍛冶町での生活を懐かしく思ったに違いない。
 鍛冶町の森鴎外旧居の生け垣に沿って大きな夾竹桃がある。鴎外が鍛冶町に住んでいた当時からのもので、100年以上の年月を経たいまも、毎年夏になると赤い花を咲かせ続けている。

(曽田 新太郎・筆)  

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