時空を超えた因縁~鴎外と清張

今年は「松本清張生誕100年」ということで前回に引き続き、清張を題材に選びました。
鴎外と清張という、世代の全く異なる二人の人物が出会って言葉を交わしたという、しかも出会った場所がこの堺町で・・・普通に考えたら摩訶不思議なお話です。
 昭和26年2月、行方が分からなかった森鴎外の「小倉日記」偶然に発見される。そして同年3月、松本清張が懸賞金の金額に創作意欲をかけたてられ書いた「西郷札」という小説が「週刊朝日」に入選作として掲載された。また同じ年の初夏に田上耕作氏の七回忌を伝える記事が朝日新聞社北九州版に小さく載った
 このようにこの時期、清張の生涯に重大な転機をもたらす作品〝或る「小倉日記」伝〞のヒントともいえる事柄が起きている。清張にとって運命の歯車が音もなく動き始めた時期だった。ただ、この時点においてこれらのヒントは清張の記憶の片隅にあったとしても、何も形としては為していない。
 昭和27年3月、友人の阿南哲郎に連れられて、田上耕作の事を聞くために堺町の曽田共助邸を訪ねた。話すうち共助の人柄に触れ、それから清張は足繁く曽田邸に通うようになった。
 田上耕作は小倉郷土会の会員であり、鴎外の「鍛冶町旧居」に不具な体ながら独力で標木を建てた。耕作が、鍛冶町の「鴎外旧居」を顕彰におよんだ直接の動機なり経緯なりは謎であり誰も知らなかった。そして耕作が門司の空襲で死ぬ前に、調査した資料をいっぱい入れた風呂敷包みをを友人に託したという話もあるが誰もわからないままである。そういう謎に部分に清張の取材意欲を駆り立てる要素があったと推察される。
 昭和27年夏清張は〝或る「小倉日記」伝〞を書き始める。ためていた構想を一気に吐き出すかのように書いた小説は、同じ年の秋に「三田文学」に掲載された。
昭和27年11月24日、森於莵氏が小倉市と小倉郷土会の招きで小倉に来た。森於莵氏は鴎外の息子であり、文学博士である。目的は鍛冶町の「森鴎外旧居」の建標式に出席するためと講演会で「わが父を語る」という講演をするためであった。
翌25日、夕刻から曽田邸で森於莵氏を囲む郷土座談会がもたれた。その時、清張もその場に参加しており、「時空を超えた因縁」とも言える面会が成立する。森於莵氏は清張の顔を、優しい目でじっと見つめ「父のことを書かれたのは、あなたですか」と語りかけるように言った。
「三田文学」に掲載されたとはいえ〝或る「小倉日記」伝〞はまだ世に出ていず、ほとんど誰も知らないはずなのに、その事を鴎外の息子が知っていることに感激したが、すぐさま共助のはからいであることを悟った。
清張はその時、森於莵氏ではなく鴎外自身が自分の目の前に現れ、語りかけているように感じた。
「君か・・・わたしの事を、小説に書いたのは・・・」鴎外の声を耳底で聞いた気がした。鴎外のDNAを引き継ぐ人物と面と向かいながら、いま自分は鴎外と話をしていると、清張は思った。
清張が鴎外と「時空を超えた面会」を果たした約一ヶ月後の昭和28年1月、〝或る「小倉日記」伝〞は芥川賞を受賞する。
それでも、その頃の芥川賞、直木賞はただ文壇的な事柄であり、現在のように騒がれるわけではなく新聞の片隅に小さく載る程度であった。ちなみに芥川賞が社会的現象なりうるのは昭和31年、石原新太郎の「太陽の季節」からである。
芥川賞を受賞し、清張の心の底にくすぶり続けていた焦燥とも後悔とも虚無感ともつかぬ得体の知れないものから解放されたかというとそうではなかった。
「このままでは自分の人生の可能性は大きく開いていかない」と、清張はいままでの自分の人生に照らして強く思い、脱出の機会を窺っていた。
そして「時空を超えた面会」から約一年後の昭和28年12月21日、清張は朝日新聞西部本社から東京本社への転勤という形で小倉を離れるのである。
清張が自分の人生の可能性に向かって「脱出」した瞬間であった。
余談であるが、私はその時、室町にあった旧小倉駅で、上京する清張氏を見送った一人である。・・・・と言っても私は当時、4歳の子供で、何も覚えていない。
僅かながら、記憶の底に残っているのは、父の腕に抱かれて、プラットホームを離れて行く列車に向かっていつまでも手を振っていたという事だけである。

曽田 新太郎   

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