消えた教会

小倉郷土

鍛冶町の繁華な鴎外通りを東に進んで、浅香通りを横切り、さらに東へ進むと、鍛冶町のはずれ、同じ鍛治町なのに、ほとんどの人も行き交うこともない場所に小さな教会があるのをご存知だろうか。
YMCAの建物の隣りにあると言ったほうが分かりやすいかもしれない。
教会の名前は「小倉インマヌエル教会」という。1898年(明治三十一年)にジェームズ・ハインドというイギリス人宣教師によって建てられた。
ジェームズ・ハインドは1890年(明治二十三年)に来日し、大阪・福岡で伝道し、小倉で英語の教師をしながら布教に努め、四十年近く住んだ。そして、1934年(昭和九年)73歳で亡くなった。
そして、そのジェームズ・ハインドが牧師を務めていた教会が鍛冶町にもうひとつ在った。それは、真言宗正福寺の、通りを挟んだ前に建っていた。
「小倉メゾシスト教会」通称「鍛冶町教会」である。日曜日には多くの信者さんや西南女学院の生徒さんたちが礼拝に訪れた。
しかし、この教会は、いまから三十四・五年前に、突然の火事によって跡形もなく消失してしまった。
火事によって焼失してしまった教会の跡地には、現在「山内パークアベニュー」という飲食ビルが建っている。かつてこの場所に教会が建っていたという事実を顕彰する物は何もないので、そのことを知る人はほとんどいない。
「小倉メゾシスト教会」(鍛冶町教会)で、1,922年(大正十一年)2月、堺町に住んでいた頃の杉田久女がジェームズ・ハインドによって洗礼を受けたという事が記録に残っている。
また、鴎外の「小倉日記」にハインドの名前が出てくる事から、ジェームズ・ハインドは鴎外とも親交があったことを覗える。
私は、鴎外通りから東の方へ歩きながらあることに気付いた。
それは「小倉メゾシスト教会」(鍛冶町教会)・「森鴎外の旧居」・そして、「小倉インマヌエル教会」を三つの点に見立てて結んでいくと、一本の道つまり一本の線でつながっているという事である。そのことに気付いた時、この三つの場所に強い因縁めいたものを感じたのであった。

(曽田 新太郎 筆)

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