ある女性歌手の話
1958年(昭和三十三年)の夏だったと記憶している。
当時堺町は、三〇〇坪の敷地に広い庭を持つ家が多く閑静な住宅地だった。私の家の庭と、隣の家の庭の間には、高い木造の塀が建っていたが、ちょうど人ひとりが通れるほどの隙間があり、その日、私はいつものように、兵の隙間をかいくぐるようにして、隣の家に遊びに行った。
私は堺町小学校の3年生だったから、その日は日曜日だったと思う。日曜日の早朝なので静かなのだが、その静けさの中に奇妙な重さが漂っているのが感じられた。家の中に向かって、昨日の夕方、明日も朝から遊ぼうと約束したその家の男の子の名前を呼んだが返事はなかった。兄姉が多く、いつもは必ず誰かがいるのに誰も出てこない。不安を感じながら、家の周囲をぐるっと回り、庭を見渡しても、家族全員の誰一人として姿を荒れ和す者はいなかった。
その家族が「夜逃げ」をしたという事を、後になって母から聞いた。
父親は書店を経営していた。書店の経営だけなら良かったのだろうが、慣れないパチンコの事業に手を出したのが失敗だった。
昨日まで何の変りもなく生活していたのに、翌日の朝には家だけを残して跡形もなく消えてしまった家族の事は、日々の生活の中でいつの間にか忘れてしまっていた。
数年後、その家族の中のひとりの女の子に、私はテレビを通じて再開し。びっくりすることになる。数年前、一夜にして忽然と姿を消した女の子は、歌手としてその顔をテレビの画面に映し出していた。
その女性歌手は、1962年(昭和三十七年)、十六才にしてリリースした「可愛いベイビー」が100万枚を売り上げる大ヒットになり、当時としては日本人離れしたキュートな顔立ちと確かな歌唱力で人気を博し、たちまちのうちにスターの座に駆け上がり・年末の紅白歌合戦にも出場してしまうのである。
「可愛いベイビー」が大ヒットしたあと、伊東ゆかり、園まりとスパーク3人娘として売り出し、テレビでは顔を見ない日がないくらい数多く出演し、ザ・ピーナツ、クレージーキャッツと共に「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」の常連として一時代を築いていった。
ここまで書いたらこの女性歌手が誰か、わかる人はわかると思います。そうですその女性歌手の名前は「中尾ミエ」です。
「中尾ミエ」は、少女の頃、家族といっしょに小倉の堺町に住んでいた。いまは丸源8番が建っている場所に家があり、そこから付属小学校に通っていた。いっしょに遊んでいた頃から私たちは本名の美禰子ではなく、なぜか「ミエ」ちゃんと呼んでいた。歌が大好きで、いつもなにかしら歌を口ずさんでいた。
小倉の、それも堺町に住んでいたひとりの少女が、1958年(昭和三十三年)、夜逃げ同然に家族と共に上京し、歌手になるという「夢の実現」に疾走し始めたのは、折しも、
日本が高度成長期にむかいはじめるじきでもあった。
そして、「中尾ミエ」が紅白歌合戦に連続出場した1962年(昭和三十七年)から1969年(昭和四十四年)は日本経済が飛躍的に成長を遂げた高度経済成長の時代の中にすっぽりと収まる。特に1964年(昭和三十九年)は東京タワーが完成し、東京オリンピックが開催され、新幹線が開通した年であるとともに「中尾ミエ」の絶頂期でもあった。
そしてまた、堺町・鍛冶町が閑静な街から「北九州の社交場」として華やかな歓楽街に変貌した時代とも重なるのである。「中尾ミエ」は日本の高度経済成長と共に歩んだ歌手と言えるだろう。
1973年(昭和四十八年)飛躍的な成長を続けた日本経済は、翳りを見せ始め、やがて失速していく。同時に「中尾ミエ」をテレビで見る回数も減っていった。
しかし、」彼女と同時代に活躍した数多くの歌手やタレントが消えていったなか、「なかおみえ」は、六十六歳になった現在でも、頻度はもちろん少ないが各種トーク番組などにゲスト出演したり、映画やドラマ、CM・歌番組・バラエティー番組などで活躍している。また一個人として地域に絡んだ社会活動に参加しているという。
今回、少女の頃、小倉の堺町に住んでいた「中尾ミエ」という歌手の事をかいたのは、これもまた「鍛冶町・堺町の歴史と文化」のひとつではないかと思ったからである。
最後に・・・「中尾ミエ」は二十才の若さで都内に一軒家を購入して、両親にプレゼントした。私は、家を失い夜逃げした「あの日」への、彼女なりのリベンジだったような気がするのである。
(曽田 新太郎 筆)
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