「長寿の秘密」~中道正二先生のこと
堺町・鍛冶町が、北九州の夜の繁華街になって五〇年近くが経とうとしている。
この約五〇年の間に、街はさまざまな変貌をとげながらも、昼は閑静なビジネス街、夜は歓楽街という形を保ち続けている。
この堺町に、百歳になる男性が、今も現役で働いているのをご存じだろうか?閑静なビジネス街の貌を持つ昼間の堺町、昼食時になると、立ち並ぶオフィス街から、サラリーマンやOLたちがぞろぞろと繰り出して来てざわめいた雰囲気になる。
それよりも少し前の十一時三十分頃、一人の老人が、杖の音を地面に響かせながら歩いていく。杖の音は軽やかでリズミカルなテンポを刻んでいる。紙は油っ気のない白髪、黒縁のめがねをかけ、黒いコートを羽織っている。ボタンのかけていないコートの下には白い診察衣が見え隠れしている。・・・と言ってもその老人は医者ではない。彼の職業は整体師。名前は中道正二さんである。
中道正二先生は、大正二年(1913年)一月十八日生まれの百歳である。堺町に飲食ビル「中道」を所有している。ひょく際のビルオーナーということだけでも話題になるかもしれない。しかし、中道正二先生のすごいところは、百歳にしてまだ現役として整体師を続けているということである。
中道正二先生は、自分の所有するビルの最上階で「中道保健体育研究所」という整体治療院を開業し、そこで毎日、治療に通ってくる人たちに施療している。中道正二先生は日本体育大学を卒業した後、縁あって、当時まだ日本の植民地であった朝鮮の京城に、女学校の体育の先生として赴任した。太平洋戦争では、二度の戦地を経験している。中国戦線とフィリッピン戦線での経験は、彼の、その後の人生に大きな影響を与えた。
戦争が終わり、朝鮮から家族を連れて引き揚げてきた中道正二先生は、体育の先生には戻らず、乾物を売る商売を始めた。戦後の物のない時代である。商品は飛ぶように売れた。しかし、好事魔多して、同業者の保証人になったりして辛酸もなめたようである。商売の良さ悪さを身に沁みて感じた。
そして昭和二十五・六年頃、当時の住居兼店舗のあった旦過市場で火事が起こり、中道正二先生一家は焼け出され、いま「中道ビル」が建っている場所に住居を見つけ堺町に住むようになった。
堺町に住んでからも細々と商売を続けていたが、ある日、町でばったり出会った同級生に勧められ、北九州大学の体育の先生に再びなることを決心する。体育の先生としての中道正二先生は、熱血教師だったらしい。バレーボール部を全国大会では優勝に導いている。
しかし、中道正二先生はそれには飽き足らなかった。まだ現在のように「健康志向」旺盛な時代でもなく、また今のような「不健康」な時代でもない頃、「保健体育」という目線で自分独自の健康法を編み出すことに専念し始めた。
体育の先生をしながら、「中道保健体育研究所」を起こし、講道館柔道四段で体育教師という立場から、体育という目線で人間の歩き方、走り方、骨の動き、それに連動する筋肉のいろいろな動きを観察し、体全体のゆがみや骨のズレ、神経への影響など運動系統を分析することによって、理にかなった治療法を開発したのであった。
体育の先生を退職した後、百歳になる現在まで現役で治療し続けられるのは、中道正二先生を慕ってくる患者さんがいるということであり、彼の生きる励みになっている事は確かであるが、それよりももっと、彼が語った言葉の中に「長寿の秘密」があるように思われる。
「人間は一人になることを恐れる。人間にとって、何が耐えられないかというと孤独に陥った時だ。二度も戦地に駆り出され、フィリッピンのジャングルを彷徨った時の経験が孤独に耐える力を与えてくれた。」
奥様を亡くした後、一人で生活し、百歳になる現在も整体師として施療をつづけてい
られるのはこの「孤独に耐える力」あるからなのかもしれない。もう一つ驚くべき事を付け加えるとしたら、中道正二先生にはお姉さんがいる。お姉さんだから、百三歳か百四歳になるのだが、今も元気で東京に住んでいるということである。
井筒屋の近くの船場町で放電療法のハリと整体の整骨院を開業している長男の中道敏雄さんが付け加えてくれた。「伯母が健在であるということが、父にとって長生きをする大きな励みになっていることは確かです。」
中道正二先生のもうひとつの「長寿の秘密」である。
(曽田 新太郎 筆)
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