小文字焼きはいつごろ始められたか?

小倉郷土

毎年、お盆の8月13日の夜に小文字産で小文字焼きが行われる。先祖の御霊を迎える「お迎え火」である。
五十年ほど昔は、この鍛冶町・堺町から「小」の字形に山肌がが焼かれるのを見ることが出来た。当時は閑静な住宅地であったせいか、遥か遠くの山で燃えているというのに、めらめらと燃える火音が聞こえてくるような気がした。
この「小文字焼き」はいつごろから始められたのだろうか?
有名な京都の「大文字焼き」が始められた時期は諸説あるが、室町時代八代将軍の足利義正が、近江の合戦で戦死した我が子義尚の冥福を祈るため大文字の送り火を始めたというのが、その中で最も有力な説である。そしてそれは京都の大半を焼け野原にした「応仁の乱」で身内を亡くした民衆の弔いの気持ちと重なって、お盆の慰霊の行事として毎年行われるようになった。
徳川幕府開府後の、慶長七年(1602)正月、細川忠興は城下町小倉の建設に取り掛かった。室町幕府の管領、細川家につながる家柄で京都に生まれ育った忠興が、京都の風物を懐かしんだのは想像に難くない。現に、紫川東側の城下町は京都と同じ整然とした碁盤目の町割りとなっている。そして八坂神社があり、祇園祭があり、清水寺、貴船神社、愛宕山しかりである。
そこで話はもとに戻るのだが、小文字山の山裾は、土葬も火葬もない時代、小倉の住民たちの死体の捨て場所であった。足立山観光道路を北に向かっていくと小倉市街地が一望に見渡せる場所に出る。かつて、民衆が自分たちの身内や野垂れ死にした人間の死体を捨てた場所は、現在は足立霊園という墓地になっている。
細川忠興の小倉城築城、城下町の発展に伴い人口も当然増加したが死人の数も増えた。そこで細川忠興は住民たちの冥福を祈る意味で、京都の「大文字焼き」に習って小倉の
「小文字焼き」を始めた。
私は「小文字焼き」は小倉藩初代藩主、細川忠興が始めたと推理している。
今のようにビルの立ち並ん江ぢない時代、小倉のどこからでも「小文字焼き」のお迎え火は見ることが出来た。世の中では親が我が子を虐待死させ、子が親を殺目るような事件が頻繁に起こるようになった。今年のお盆は「小文字焼き」の火を眺めながら、人間の命の尊厳について思いを馳せてみては如何であろう。
さて・・・実際には「小文字焼き」は、いつごろから始められたかというと、戦後間もない昭和二十三年の八月十三日から、翌年小倉で開催される国民体育大会を記念して行われるようになったということである。「小文字焼き」の赤い炎は、終戦後の沈滞した市民の心を熱く燃やしたに違いない。

(曽田 新太郎 筆)

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