「私立小倉幼稚園」のこと

小倉郷土

 堺町の南国ビルの北東の角に「私立小倉幼稚園あと」と刻まれた小さな顕彰の碑が建てられている。南国ビルが建てられる以前、そこは約六十年間、「市立小倉幼稚園」があった。
「市立小倉幼稚園」の歴史概要を調べてみると、明治二十三年四月、発起人杉山貞先生と小倉町氏融資により鳥町の正蓮寺で産声をあげた。その後、明治三十二年には、室町尋常小学校内移転し、小学校付属幼稚園となり、明治四十四年に堺町に移転し、大正八年には幼児教育開拓期の福岡県下唯一の公立幼稚園として独立、昭和四十四年まで当地に在った。
「市立小倉幼稚園」は公立の幼稚園でありながら、全国に先駆けて幼児教育の理想的な場所、つまり、単なる幼児の預け場所ではなく、教育的環境の整った、幼い魂を育成する場所として設立された。
見たことのない砂場、すべり台、円木、シーソー、回転木馬、ブランコ、東屋、庭園、観察用設備を整え、幼稚園の門を入ったら、楽しく喜んで生活できる園児たちの楽園、つまり「キンダーガーデン」の様相を呈して堺町・鍛冶町の子供たちはもちろん、魚町・鳥町からも、そして電車道を渡って米町・長浜の子供たちが大勢通ってきていた。
昭和四十四年に卒園した園児たちも齢五十半ばを過ぎ、この地の幼稚園が存在していた事を知る人も少なくなってきた。
それから「市立小倉幼稚園」の歴史を語る場合、大浦キミ先生の事を書いておかなければならない。
大浦キミ先生は、二代目園長として大正九年に赴任して以来、昭和二十七年まで三十二年間にわたって園長を務めた。家庭のなかだけの生活から離れて、母親の手元から離れて幼稚園という集団生活の場へ導き入れるのに苦労した幼稚園初期の時代から始まって、戦争の時代を経て、家庭的な理想的幼児教育の場を作り上げた人であった。
小倉の閑静なお屋敷町であった堺町に建てられた幼稚園の近隣の様子は、園舎裏は小児科、斜め前は産婦人科、民家の立ち並ぶ鍛冶町、鍛冶町筋を挟んで鍛冶町教会、隣はお寺、堺町筋を隔てて東禅寺、曽田医院、女学校に囲まれ現代では見られない環境であった。
「園舎は貧弱そのものでしたが、周りに住んでいる人たちは、人間性のとても豊かな人たちばかりでした」と、後年、大浦キミ先生が述懐しているように、人間性豊かな人たちに支えられてこの「市立小倉幼稚園」は存続していたのだと思う。
そして、その後「市立小倉幼稚園」が堺町から現在地の砂津に移転した昭和四十四年から、堺町・鍛冶町は北九州の歓楽街として大きく変貌をとげていくのである。
南国ビルの角、かつて正門のあった場所に建てられた顕彰の碑の前を通った時、ここに幼稚園があった事に思いを馳せてみてはどうであろう。

(曽田 新太郎 筆)

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