堺町の山鉾
鬱陶しい梅雨が明けると、夏の風物詩、小倉の太鼓祇園祭と共に、夏がやってくる。
今回は堺町の祇園祭の山車について書いてみたいと思います。
かつて、堺町にも祇園祭の山車があった事を知っている人は数少なくなってきている。
堺町の祇園祭の山車は、昭和43年の夏を最後に姿を消した。
最上部は宝剣、次が雲、その下に銀杏と巻物紋の飾り物、さらに波形の彫物と白毛の馬簾をしつらえた京都風の優雅で勇壮なものであった。
台の部分は子供たちが何人乗っても大丈夫な程、頑丈な造りであった。
明治の頃、かつての廻り祇園の風習が残っており、各町内は八坂神社の御神幸に従い山鉾や太鼓を連ねて街を練り歩いたという。
しかし大正初期から電線の架線が進み、町中では山鉾を曳くことが困難になったり、徐々に町内では太鼓を山車に据えて、架線に引っ掛からないように小型の山車に変換していった。
それだも、堺町の山車は山鉾の形を最後の最後までその勇壮な姿を変えることはなかった。
私たちが子供の頃、五十人以上の子供たちが山車をひっぱり、それは華やかであった。
子供たちにとっても自慢の種であった堺町の大きな山車がなぜ消えてしまったのであろうか?時代の変遷であった。
堺町が歓楽街へと、変貌してゆくにつれ、昔からの住民がいなくなり子供たちも次第に減っていき、武吉酒店の武吉さんのお父さんを中心とした世話人さんたちも不足し、町内費を集めるのも困難な時代になったのである。
そして、それに輪をかけるように、堺町の山車の通常の保管場所であった「求道院」というお寺が土地を売却したため、保管場所がなくなったことも要因となり、様々な原因が重なった末の堺町の山鉾廃止であった。
その後、山鉾は北九州市に寄贈され、現在は「いのちのたび博物館」の保管されている。
求道院は、堺町の子供たちが土曜、日曜に習字や絵を習いに集まる寺子屋のような場所でもあった。
そういう日常が子供たちの交流を深め、祇園祭の山車を汗びっしょりになって引っ張る一体感につながっていたと思う。
時代の移り変わりとともに、堺町、鍛冶町も変貌を遂げてきたが、「いのちのたび博物館」に行くと、かつての堺町の山鉾の勇姿をあの時代のままに見ることができる。
一度訪ねて、子供の頃の思い出とともにノスタルジックな気分に浸ってみてはいかがでしょう。
(曽田 新太郎 筆)
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