セピア色の詩風景 清張の見た鍛冶町・堺町

松本清張の「表象詩人」の中に小倉の街の雰囲気エお伝える描写が出てくる。
 「魚町という一筋の華やかな商店街の横を一歩でも東にそれると、鳥町、鍛冶町、堺町、小姓町、紺屋町、といった旧士族町や旧職人町の裏寂しい区域になる、堺町や鍛冶町は寺や弁護士の家や医者が多く、昼間でも通りは森閑として声を絶っている」
 清張の記憶の中に、小倉はどこもが静かな風景として浮かび上がってきたようである。この小説に描写された小倉の街は、昭和初期である、しかし清張が実際に堺町・鍛冶町を歩き回った昭和25・6年頃の風景も、その頃と変わりはなかった。
 松本清張の「或る『小倉日記』伝」は昭和26年の初夏に朝日新聞北九州版に載った小さな記事がきっかけで書かれた。それは、鴎外研究家・田上耕作の七回忌を伝えるものだった。清張は誰もが見落とすような、あるいはさっと流されるような小さな記事から小説を作り出す手法を生涯のなかで何度も用いている。この時もそうだった。
 当時、朝日新聞西部本社広告部に勤務していた清張は、記者から阿南哲郎氏、阿南哲郎氏を通じて、堺町開業医・曽田恭介を知る。田上耕作は生前、曽田の書庫に自由に出入りする書生だった。曽田共助は耕作をよく憶えていた。それを伝手にその後、清張は耕作を知る人たちに会っては話を聞いた。「或る『小倉日記』伝」における田上耕作はこうした取材から創り上げられた。
「或る『小倉日記』伝」は神経系に障害をもった身体の不自由な青年、田上耕作が鴎外の「小倉日記」が行方不明になっていることを知り、その復元に情熱を燃やす。貧しい日常のなかで母親に助けられながら「小倉日記」を埋めていく。そして空白の大部分を埋めた頃、神経麻痺の病状の進行と栄養失調で病の床に伏し、昭和25年の暮れ、寂しく息絶える。耕作の死後、昭和26年2月、東京で本物の「小倉日記」が発見され、耕作の「小倉日記」は日の目をみなかった  。
人間の行為の虚しさにうちのめされる小説である。
田上耕作は実在の人物である。昭和13年に鍛冶町の森鴎外旧居を探りあてたことで知られる。そして実在の田上耕作は、小説の主人公のように不遇の人でもなく、暗い生活も送っていなかった。また、神経麻痺と栄養失調のために病の床で寂しく死んでもいない。実在の田上耕作は昭和20年6月29日の門司空襲で死亡した。
 松本清張は、昭和28年、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞し世に出るきっかけを掴む。45歳の時だった。
 その後、平成4年、84歳の死の直前まで精力的に作品を世に送り続けた。
 いまの堺町・鍛冶町の風情からは想像もつかないことであるが、清張がまぶたの裏に焼き付け、びょうしゃしたさかいまち・鍛冶町の風景はセピア色で、森閑として声を絶つほどの静寂をたたえている。
 清張は彼特有の冷めた視線を静かな街の風景に投げかけながら、この堺町・鍛冶町の通りを熱き心を抱いて黙々と歩いていたに違いない。   (曽田 新太郎・筆)

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