鍛冶町の秘仏

小倉郷土

鍛冶町に国宝級の「秘仏」があるのをご存じだろうか?
平和通から鴎外通りに入って、ひとつめの左角に「鍛冶町観音堂」がある。その中に鎮座する「千手観音菩薩」がそうである。
「鍛冶町観音堂」の由来は、慶長年間に、東光院良清なる者が現在の地に祠を建て、そこに千手観音菩薩像を安置し、祈祷の場としたのが始まりである。いまから遡ること
四百十年前、というから具体的に歴史上で捉えると関ヶ原の合戦があり、勝利した徳川家康が、その後征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた頃のことである。
「鍛冶町観音堂」はさらに、寛文3年には、光明院周覚という人物によって、堂宇が改めて立て直され、そこで国家安全の祈祷を行ったという。ちなみに寛文三年というのは徳川幕府も安定し、小倉藩の藩主は細川家から小笠原家に代わって、初代藩主の小笠原忠真の頃である。
「鍛冶町観音堂」の中を覗くと、真ん中にご本尊である「千手観音菩薩像」そしてそれを囲むように両隣りを地蔵菩薩、不動明王、藍染明王、延命地蔵菩薩が鎮座している。
ひとつひとつの仏像の顔を拝んでいると、この約四百年というとてつもなく長い年月の間、世の中で起きた様々な出来事が、それこそ下天の内の夢まぼろしのごときことのように感じられる。
しかし、この千の手を持つ観音菩薩の前で、手を合わせ救いを求めた人間たちのほとんどは、名も無き人々であったに違いない。その名も無き人々の進行によってこの「千手観音菩薩」は永続的に受け継がれてきたのだ。そのことを考えると、人間の歴史の重さを強く感じざるを得ないのである。鍛冶町を訪れるひとたちは、一度しっかりとこの「鍛冶町観音堂」で「千手観音菩薩」そして居並ぶ仏像に手を合わせ、拝顔してみてはいかがであろうか。
「鍛冶町観音堂」の外にも、子供を抱いた大きな地蔵菩薩が座り、また誰が持って来たのか何体もの石地蔵、石の仏が並んでいる。
毎年、八月二十四日には、日頃より『鍛冶町観音堂』のお世話をしてくださっている八並質店の八並正臣さんを中心に「地蔵盆」の行事が行われている。
「地蔵盆」は八月二十四日に行われる地蔵菩薩の縁日であり、この日は日本全国津々浦々到る所で見られる光景である。
子供たちが石地蔵に花や果物、野菜、団子などを供えて祀り、祭りが終えるとそれらを持って帰るという風習である。土地によっては石地蔵の顔に白粉をつけて飾ったりするが、すべて子供中心の祭りなのである。鍛冶町から子供がいなくなって何十年もたつが、微笑ましいことにその日だけはどこからか子供たちが集まってきている。
今年も八月二十四日の夜には「鍛冶町観音堂」では「地蔵盆」の縁日が行われる。
近年、鍛冶町・堺町は沈滞している。客引きの男たちばかりが目立ち、「鍛冶町観音堂」の前でさえ、平気で唾を吐き、煙草の吸殻をポイ捨てするような若者が徘徊する街になっている。その鍛冶町・堺町に、かつての浮き立つような活気を取り戻すべく、特に今年は、同じ八月二十四日の「地蔵盆」の夜に、華やかに祭りが開催される運びとなった。「美松コアビル」の前にお祭り広場ができ、屋台も並ぶということである。
賑やかな夜を「鍛冶町観音堂」の中の「千手観音菩薩」をはじめ、小さな石地蔵まできっと喜んでくれるに違いない。そして、かつて「北九州の社交場」と呼ばれた頃の明るく健全な活気を、この鍛冶町・堺町にに取り戻してくれることであろう。

(曽田 新太郎 筆)

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