曽田 共助さんの事

小倉郷土

現在は「ニュー南国ビル」が建っている場所にかつて「曽田医院」があったことを知っている人は少ない。   赤レンガの塀に囲まれ、庭にはバラの花が豊に咲くバラ園があり、水色のモダンな木造洋館建ての病院だった。 またその筋向かい、現在は「曽田有料駐車場」になっている場所には曽田邸があった。この住宅は、今は取り壊されているが、もとは日産グループの創始者である鮎川義介邸であった。その鮎川義介が東京に居を移すにあたり曽田恭介が買い取ったものであった。

曽田恭介は九州帝国大学医学部を卒業した後、当時、日本の医学界において耳鼻咽喉科の権威と謂われた、久保猪之吉教授に師事し、大正5年、小倉市立病院(現在の市立医療センター)耳鼻咽喉科解説にあたり院長として赴任した。そして大正8年小倉市堺町に病院を開業した。

曽田共助が堺町に病院を開業したのとほとんど同時期の昭和8年「小倉郷士会」が発足した。 性格的に清濁併せ呑む風の共助に人望は集まり、いつしか慕い寄る人々が多くなっていった。これは共助自ら誘導したものではなく自然に盛り上がっていったものであった。   そして昭和10年9月、機関紙「豊前」が創刊され活動は活発化していった。しかしその後、戦争の激化により文化運動はストップ状態になった。

戦後の昭和27年3月、息を吹き返したように「小倉郷土会」は復活し、機関紙を「記録」と改めた。曽田共助は広い学識と文化面の教養、特に民俗学、郷土史研究では第一人者であり、中心的存在であった。  曽田邸には市政人はもとより、実業家、政治家、法律家、教職、宗教家、俳句や短歌の同人、芸能人に至るまで多彩な人々が集まり、いつしか「曽田サロン」と呼ばれるようになった。

松本清張もまた曽田共助に知己を得た一人であった。彼の芥川賞受賞作品「或る「小倉日記」伝」は「曽田病院」が舞台であり、文中に小倉郷土会の人たちがモデルとして数多く出てくる。

「その頃、小倉に白川慶一郎という医者がいた。大きな病院を持っていた。どこの小都市にも一人はいる指導的な文化人だ。」と曽田恭介も作品中の人物として登場する。主人公の田上(たがみ)耕作のモデルもまた田上(たのうえ)耕作という実在の人物であった。

柳田國雄、吉井勇、火野葦平、岩下俊作、劉寒吉、横山白紅、杉田久女、橋本多佳子、阿南哲郎、……  曽田邸に出入りした人物をあげると枚挙のいとまがないが、「小倉郷土会」を支えたのは、曽田共助のもとで地道にコツコツと研鑽を積んできた人たちであった。

そういった会員たちの各種の郷土史研究書を刊行したり、森鴎外の遺跡保存、小倉外事専門学校(現在の北九州市立大学)の設立推進、「門司新報」の買収に協力し図書館に寄贈するなど、目立たない部分で、多く後世のために寄与したのも曽田共助であった。

昭和38年7月5日、堺町の自宅で、曽田共助は78歳の生涯を終えた。

鍛冶町・堺町がいまのような歓楽街へ変貌してゆくほんのすこし前であった。

 

 

 

(曽田 新太郎 筆)

ピックアップ記事

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。