杉田久女の句碑と楊貴妃桜

「花衣ぬぐや纏はる紐いろいろ」
 堺町公園の緑多い敷地の一角にこの俳句が刻まれた句碑がひっそりと建っている。句の作者は大正から昭和の初期にかけて、女流俳句の先駆者として、「ホトトギス」で活躍した、美貌の俳人、杉田久女である。
 この俳句は久女が「ホトトギス」で俳壇の注目を集めた大正8年の作で、句碑はその35年後の昭和59年に「杉田久女顕彰会」よって建立された。
 杉田久女は明治23年、鹿児島に生まれた。 久女と小倉の結びつきは、夫である画家杉田宇内が小倉中学(現・小倉高校)の美術教師として赴任してきた時からである。
久女は夫、二人の女児とともに大正7年頃から、堺町に住んでいた。
 ちょうどその頃、久女は高浜虚子の知己を得る。
そして、ますます俳句にのめりこんでいった。
虚子は、久女の句を「清艶高華」と評した。久女は女性の優艶さを感じさせる俳句を多く詠み、彼女の美貌とともに俳壇の注目を一身に集めていった。
 久女の絶頂期は42歳の時、東京日日、大阪毎日新聞が共催した「日本新名勝は俳句」に応募した作品、
「こだまして山ほととぎすほしいまま」
が「帝国風景院賞金賞」を受け俳壇の話題をさらった昭和6年から、ホトトギス同人となる昭和9年までの短い期間であった。
 短い期間といったのは昭和11年、失意のどん底に突き落とされることが起きたからである。久女は敬慕する高浜虚子から、突然理由もわからないまま、同人を除名された。
 久女にとって「ホトトギス」を除名されてから亡くなるまでの10年間は悲愁の年月であった。
虚子に破門され、何故かわからないいらだちと寂しさを紛らわせるため、その後も久女は俳句を作り続けるが、失意のまま、昭和21年1月21日、杉田久女は大宰府の福岡県立筑紫保養院で夫宇内の看護の甲斐もなく死去した。
 高浜虚子との軋轢と侘びしい死が、久女の生涯を悲劇化した。 久女は死後しばらくの間、小倉では悪く扱われ受け容れられなかった。
 松本清張が久女の事を題材にして「菊枕」という小説に書いたが、内容は久女にとってあまりにも厳しい作品となった。
 多くの人たちが杉田久女を悲愁 の俳人と評した
文化に遠い時代だってのだろう。
 堺町公園の、久女の句碑の傍らに、楊貴妃桜の木が一本植えられている。楊貴妃というその名の通り、妖艶で美しい桜である。公園の桜が満開になる頃、通常の桜よりも濃い色の花を咲かせる。
 悲劇の一生を送った美貌の女性ということで、楊貴妃と杉田久女は共通するのかもしれない。
 しかし、時の流れが久女を覆っていた濁りを洗い流し、女性の優艶さを俳句に詠い込んだ俳人として多くの人に知られるようになったいま、傍らの「楊貴妃桜」がとても似合うと思われるのである。
 そしてここ堺町は、杉田久女が最も長く住んだ町であった。

(曽田 新太郎・筆)

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