「逆転のミステリー」~円応寺 

小倉郷土

 昔、円応寺筋という道筋があった。現在の平和通から北九州銀行の角を曲がって浅香通り、そして砂津川に通じるまっすぐな一本道のことである。
堺町、鍛冶町がまだ静かな町並みを残していた頃、そこに、円応寺という寺があった。現在、北九州銀行が建っている場所と平和通りがその円応寺の寺地であった。
円応寺は堺町にあった浄土宗寺院で京都知恩院の末寺である。寺地が小倉市(当時)の駅前整備と平和通り新設計画のため土地収用にかかったため、昭和二十八年(1953年)堺町から小倉の清水に移転し、円応寺の名前を留めて、いまも残っている。
清水の円応寺は堺町にあった時と同じ神仏混交のお寺である。神仏混交は現代では珍しい形態ではあるが、境内には、いまも寺院の中の神社として、坂尾八幡宮が祀られている。
「堺町近辺は港や長崎街道の起点(長崎町)にも近く、昔から交通要衝の地であった。  昔は、その堺町や長崎町の辺りを坂尾と言い、そこに坂尾八幡宮という地主神を祀るお宮があり、その社地に円応寺は建立された」という言い伝えが記録としてのこっている。確かに「小倉藩士屋敷絵地図」という古地図を見てみると、長崎町、堺町といった地名が見られる。
つまり堺町にあった円応寺は、慶長十七年(1612年)「円応寺」として開基されたのであって、その「円応寺」が建立されるずっと以前から同じ場所に神社や仏堂があり、数百年の歴史を持つ場所であったということである。
そこで、今回は、円応寺にまつわる話を書いてみようと思う。
細川忠興が、小倉入府後の慶長七年(1602年)、細川ガラシャ夫人の命日に合わせて盛大なミサを行った場所が、坂尾八幡宮のあった場所らしい、つまり堺町の円応寺のあった場所だったという言い伝えがある。
関が原合戦の折り、石田三成は大阪にいた東軍の妻子を人質として取ることを目論んだが、細川ガラシャ夫人は、それを拒み、屋敷に火を放って自刃した。悲しい最期を遂げた母を慕う二人の子、忠利とお万が、父である忠興に請うて実現したと伝えられる。その時、多くのキリシタン信徒がこのミサに集まった。
元々、細川家はキリシタンに好意的で、布教を保護した。キリシタン禁教令前の慶長十五年(1610年)には小倉には教会が二ヵ所、宣教師十人、信徒二千人以上がいた。
小倉市(当時)の土地収用で、円応寺が清水に移転した後、敷地調査が行われたが、、多くの饔棺が出土した。マリア井戸とひそかに呼ばれ隠れキリシタンたちが水汲みに事寄せて詣でていた古井戸がお宮の前にあったという事も伝えられている。
堺町の円応寺は、慶長十七年(1612年)豊前中津の円応寺にいた真譽見道上人が小倉に来て同名寺「円応寺」を開基したとある。慶長十七年(1612年)といえばキリシタン禁教令が公布された年と合致する。
建立当時は坂尾八幡宮の広い敷地の中の「小さなお寺」だった円応寺が、いつの間にか「大きなお寺」となり、坂尾八幡宮は「小さな祠」となって残ったという「逆転のミステリー」はなぜ起こったのかという事を考えてみた。
これはあくまでも私の推察であるが、広い敷地を持つ坂尾八幡宮の中に建てられた円応寺は当時、「円応寺」という名ではなく、ただの「小さなお寺」であったと思う。そしてその「小さなお寺」は、堺町近辺のキリシタン信徒たちの礼拝堂のような場所ではなかったかということである。
しかしキリシタン禁教令公布後、一転して厳しい弾圧に変わり、礼拝堂であった「小さなお寺」は、小倉藩のキリシタン施政の方針により「円応寺」が新たに建立され、徳川幕府ゆかりの京都知恩院の末寺として浄土宗の「大きな寺院」に変貌していったのではないかと思う。円応寺の境内に「小さな祠」として残った坂尾八幡宮が、キリシタン禁止令公布後も、隠れキリシタンたちが秘かに拝む場所になったのではないだろうかと想像してみた。これが「逆転のミステリー」の推察の域を出ない真相である。
堺町・鍛冶町には、いまも跡形もなく痕跡すら留めていないが、歴史ある多くの寺が存在していた。そして、そのそれぞれの場所には知られざる歴史秘話が埋もれている。円応寺もその中のひとつだと、私は思っている。

(曽田 新太郎 筆)

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