「正福寺」
鍛冶町のほとんど真ん中に、江戸時代元禄年間(一六九五年前後)より、約三百年続いているお寺がある。真言宗高野山金剛峰寺の末寺、正福寺である。正式には国護山正福寺という。
今回はその正福寺にまつわる話を書いてみようと思います。
江戸時代、参勤交代の折り、陸路に比べて、海路の方が苦労も少なく、経費にも有利でかつ、速度も速いという事で、小倉―大坂間の瀬戸内海航路は古くから開けていた。しかし、途中天候風向きに左右されることも多く、不時に遭遇する海難事故が難点であった。特に、西に周防灘、東の播磨灘は最大の難所で九州の諸藩が苦慮する場所であった。
宝永六年(一七〇九年)のことである。小倉藩の支藩である小倉新田藩の藩主で、小倉藩二代藩主、小笠原忠雄の弟である小笠原真方は江戸参勤の帰途、明石海峡にて不意の難風に遭遇する。七月五日の事であった。船は小豆島まで吹きつけられ、坂手浦という漁港の蛭児岩近辺で、破船沈没した。その事故で一行百人余りが、海底の藻屑と消えた。
事故の後、次々と夥しい数の遺体が漁港に流れ着き、坂手浦の漁師たちによって引き上げられて言った。その中に小笠原真方の遺体もあった。
事故の知らせは、七月九日には小倉に伝えられたが、百人余りの死者を弔い、荼毘に付すのに時間がかかったであろう、一行の遺骨と小笠原真方の遺体が、小倉長浜浦に到着したのは、七月二十八日のことであった。
その後、長浜の庄屋、岩松家がすべてを取り仕切った。そして遺体を小笠原家の菩提寺であった開善寺に引き渡す迄の間、弔いの読経が行われたが、その読経を行ったのが、当時の正福寺の御住職であった。
これは、讃岐国小豆島の坂手浦に於いて百人余りの小倉新田藩士たちの弔いを行った寺が真言宗で、同じ宗派の正福寺と何らかの縁があってのことではないかと推察する。
長浜浦での弔いの読経の後、小笠原真方の遺体は開善寺に運ばれ葬儀が行われ、その後同寺に葬られた。享年五十八歳であった。
余談であるが、船の遭難現場である小豆島の坂手浦では、毎年七月五日、小笠原真方をはじめとする一行百余人の冥福を祈る法要が三百年経った今でも行われていると聞く。
背福寺境内には、江戸後期の頃の弁財天像が別堂に祀られている。また大津山有眼斎という小倉藩士で剣術家の墓もあり、明石海峡で起きた大きな海難事故も含めて、深い歴史を刻みこんだお寺が、私たちの街の中にいる事を忘れてはならない。
もう一つ付け加えさせていただくと、正福寺御住職は、毎年夏に行われる地蔵盆の際、鍛冶町観音堂で読経を行っている。そういう地域に密着したお寺でもある。
鍛冶町を歩いている時、正福寺にふと立ち寄ってみてはいかがでしょう。三百年の時の流れを一瞬の間、感じられるかもしれません。
(曽田 新太郎 筆)
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